25年前のことだけれど

25年前の秋、私は家庭の事情により茨城県鹿島町(現在の鹿嶋市)の高松中学校から東京の東村山第一中学校に転校しました。今でこそ、学生時代の私は陸上部に所属していたと言っていますが、当時の私は明けても暮れてもバスケットボールに狂った中学生でした。当時、私が所属していたクラブは、顧問だった先生も熱心だったこともあり、それなりに強かったし、クラブ経営もしっかりしていた気がします。当時は先輩・後輩関係もそれなりに厳しかったし、練習に休みなんてなかったし、今ではあり得ませんが練習中には水なんて飲ませてはもらえなかったです。当時、高松中学校全体がクラブ活動をとても重視する学校だったと記憶しています。
そして、10月になり東村山第一中学校(地元では東中と呼ばれています)に転校したわけですが、当時の東中はクラブ活動よりも学業を重視し、朝練集もなければ夕方も6時には下校が義務付けられており、日曜日や休日の練習は公式戦の日以外は一切ありませんでした。顧問の先生も指導しないばかりでなく、ほとんど練習に顔を出さなかったのですが、それだからか、クラブの仲間たちも塾や友達との約束を理由に平気で練習を休みました。それでも私は一人で朝練集を行ったり、日曜日にも校庭のゴールをつかってシュート練習をし、学校の休み時間や放課後に部員の教室を巡り、練習に出ることを確約させて回ったものでした。そういう私の思いに何人かの同級生は賛同して頑張ってくれましたが、そんなレベルの低さからか、試合に出てもチームは弱く、特に私たちが上級生になってからは、チームは一度も勝つことができませんでした。 その頃の思いもあり、自分が努力すればそれだけ自分にかえって 返ってくるという考えから、高校入学後、私は自分の活躍を夢見て陸上競技部に入部したのでした。今思うと、あの時にバスケットボールを続けていたら、恐らく私はスポーツ科学を専攻していなかったと思います。
さて、話は本題に戻りますが、今日、たまたま調べ物をしていると、私の母校である東村山第一中学校の女子バスケットボール部が東京都大会で3年連続の優勝を勝ち取り、さらに全国大会ではベスト8に入ったというニュースを知りました。私の中学校では女子部も男子部とさほど変わらないほどにレベルが低かったため、20数年後の激変に大変驚き、しかしとても嬉しくなってしまいました。あの東中バスケ部が.............という思いとともに、あの頃の思いが甦ってきます。ついでだったんでちょこっと調べてみると、どうやら顧問の先生が熱心であり、指導者としても優秀であるような気がします。
最近の公立の中高では、一人の教員が同じ学校に長く留まることを抑止する人事が行われているそうです。その他のことはよく知りませんが、このことはクラブ活動の指導や経営にはマイナスの要素を多分に備えていると思います。そんななか、「あの」バスケ部を都大会優秀まで導いた先生には、拍手喝采したいと思います。そして、あらためて、クラブの指導者の能力ってのを実感します。
ながながと書きましたが、OBとしてとても嬉しく思います。これからも頑張ってほしいものです。