職業としてやるということ

昨日のことになるが,陸上部の先生とコーチ,そしてある学生と共に就職についての意見交換をした.話の内容は某地元大企業から陸上競技の選手として就職の声がかかっているが,本人としては何れ教員にもなりたいという考えもありどうするべきかということだった.また,彼が先方にそのことを伝えたところ,将来的に陸上を辞めたらその企業に残って勤務に専念する事を前提として来るようにと言われたそうである.
スポーツ競技をする事でお金を貰うことが出来るのは,数多居るアスリートのうちの極めて僅かである.そしてその能力により勤務条件や雇用条件が異なるのだが,共通していることは競技能力が低下すればスポーツ競技を継続することが困難になるということである.たとえプロではないにしても,他の労働者と比較して優遇されるということはそういうことである.また,競技生活を引退してからもその企業に残るということは,競技生活中もそれなりにその企業で勤務することが当然求められるわけである.逆に実質勤務無しでプロの様に競技だけしていればいいような条件の場合,その企業は引退後には身を引いてもらうつもりであるということを意味するのだろう.
そのような話をしているときにコーチが仰ったことが実に印象的であった.「実力の無い選手は自分の能力がないことを勤務条件のせいにする場合が多く,すぐにアスリートとしての条件の良い所へ移ろうとする.しかし,本当に実力のある選手は実質勤務をしながらでも競技成績を残している.そもそも大学生の時が一番競技をするのには条件がいいのだから,その時に成績を残すことが出来ないのであれば,就職してから競技を続けるなんて困難である.」といった内容の言葉だったと思う.さすがは実業団アスリートとして活動しながら日本代表としてオリンピックや世界選手権を経験したコーチの言葉だけある.
競技スポーツにしても研究にしても,職業としてお金を貰いながらやっていくということは,好きな事を仕事にすることが出来ているとはいえ,責任をおうことなのだと実感した.そして競技も仕事もいつかは引退しなくてはならない時も来ると言うことは念頭に置かなくてはならないだろう.
そして引退後は関係ないからといって,雇用時の条件を無視して,引退後に退社して教員を目指した場合には,本人とその企業との関係ばかりでなく,後進の道を狭くすることになることも忘れてはいけないだろう.
っで,なぜこんな話題を今日だしたかといえば,今日,父が還暦を迎えた.父は今でこそ職場では窓際だが,私が子どもの頃には仕事人間で職場大好き人間であった.たまに家に居ても仕事の話,職場の話ばかりであった.思春期頃,そんな父に反抗したこともある私であるが,今自分が社会人になってみると当時の父の気持ちも解らなくも無い.そしてそんな父も間もなく退職である.国家公務員であるために,幸い年度末まで勤務することが可能であるようだが,元郵政省所属の研究所(現在は独立行政法人化)の職員として30年以上も勤務してきた彼にとっては,この時期の郵政民営化の是非を問うという選挙は複雑な胸中なのかもしれない.