帰省していた家族の元から太郎だけを連れて帰宅した.太郎は帰省先に飽きてきて,地元の友達と遊びたくなったそうだ.とはいえ,まさにお盆休みの時期,地元の友達とて帰省中だ.ということで太郎を連れて出かけることにした.
まずは鹿島港へ行き港公園の展望台に登る.私は幼年期を鹿島で育ち,この港公園は何度も行った思い出の場所である.息子をここへ連れてきたのは初めてだった.先日,祖父母とともに海水浴に行った太郎には製鉄所やコンビナートがならぶ鹿島港は海と呼ぶにはピンとこなかったようだ.太郎の興味を引き付けたのは港の景色ではなく,工場地帯を走る鹿島臨海鉄道の神栖駅に停められた機関車たちだったようだ.鹿島臨海鉄道を走る貨物列車を牽引する機関車はJRなどで使われているDD51ではなく,DD51によく似たKRDという機種なのだが,鉄道オタクの息子はそれに気づき大喜びだった.
私が子ども時代,鹿島臨海鉄道の陸橋の下の川がザリガニ釣りのポイントで,よくこの機関車を見ながらザリガニ釣りをしたものだ.そうだ,息子に私が育った家や町を見せてやろう!と思い息子と町へ行くことにした.
まず行ったのは私の卒業した鉢形小学校.私の小学生時代に遊んだ遊具が残されており,息子と一緒に遊んだ.そして非常階段からベランダにあがり私が使っていた教室を窓越しに覗く(本当はダメなんだろうけど....).実に20年ぶりにみる教室は当時と変わらないことも多々あったが,当時は最新であったデジタル時計やオープンスクールシステムは故障しているようだった.
続いて私達が向かったのは私の育った家.ところが,胸を弾ませて行って見ると,私が住んでいた家は取り壊されて更ににされていた,ショック.父は国の研究所の職員だった為,当時の私の家族は官舎に住んでいたのだが,その研究所も昨年から独立行政法人化されたので,きっとその影響なのだろう.借家だったのだから仕方がないのだが,大人になって自分の育った家が無くなっているというのはショックだし,息子にそれを見せてあげることが出来ないのもショックだ.ショックのあまり,兄と妹にも電話して知らせた.
(写真は取り壊された跡の更地)

(写真は自宅周辺:ブログを読んでいる私の家族向け.)
 20年経って家の周囲を見渡すと,道や公園が想像していたよりもとても小さいと感じられる.私の身体がそれだけ大きくなったということなのか?(いや,さほど身長は伸びていないだろう.)
次に訪れたのは,私が卒園した子鹿幼稚園.ところが中々幼稚園には辿りつかなかった.
鹿嶋という街は2002年のワールドカップの時に大きく発展したそうで,私の知らない大通りが町中にいくつも存在する.私が住んでいた当時の道を辿ると道が無くなってしまったり,とてもクルマが通れ無そうな道幅だったりするのだが,当時は幼稚園バスが通っていたはず....と思いながら進んでいくが,幼稚園に辿りつくことが出来ずに,海岸どおりへと出てしまう.
と,海外通りを走っていると本物の戦闘機が目に入る?もしかしてと思い,よく見ると,この戦闘機を飾ってあるところが子鹿幼稚園だ.海岸沿いに大きな道路が出来たために,幼稚園の門もこちら側に変わったのだろうか. しかし,私が在籍していた時にも本物の漁船を園内に遊具として置いていたが,30年経過してそれが戦闘機になっているとは.... 私も太郎も予想外の物体の登場に驚きである.
太郎が是非見たいというので(私も見たいので),職員室を訪ねて中に入る許可をもらい真下から戦闘機を見る.そしてついでに園内を見学する.私が入園した頃は園のすぐ横まで海岸線だったのだが,途中から埋め立て工事が始まったのだった.それが今ではハルカ数キロ先まで埋め立てられ,工場などが建ち,そこに風力発電用の大きな風車もたち,幼稚園の周囲の風景もガラっとかわってしまった.そして園舎も改築が繰り返されたようでかなり変わっていたが,よく見ると私が居た教室などはそのままであった.この日は休日だったのだが幸い日直の先生が居て対応してくれたのだが,ついでに何故,戦闘機があるのかを聞くと,園長先生が自衛隊から譲り受けたとのことだった.きっと気持ち的には私が居た頃の本物の漁船と同じなのだろう.漁船の場合には運転席や甲板,そして船底などで遊ぶことができたのだが,さすがに戦闘機はちょっと高いところに“飾ってある”状態であった.


日直の先生に,実は自分が約30年前に卒園した者だということを告白して,当時お世話になった先生方の名前を出すと,今も未だ居らっしゃるという答えにビックリであった.休暇中でなければ会うことも出来たのだろうけれど残念である.話し込んでいると息子が飽きてきたようなので,次の予定としていた,銚子犬吠崎灯台へ向かうことにする.