研究者になる?

「あなたの研究内容を街にいる老人にも理解できるように説明しなさい.」これは後輩の村岡君が今のポジションに付くときの面接で言われた言葉だそうだ.彼が面接をした時に彼から聞いた内容だから,今から半年ほど前に聞いたことだ.そして今まさに,私はそういう状況に置かれている.とはいっても,転職とかそういう状況ではない.とある競技団体と関わる仕事をしているのだが,何故これらの測定をするのか,何を見るための測定なのか,そしてこれから行うトレーニングにはどの様な意味やねらいがあるのかを,中高生をも含むナショナルチームの選手に30分で説明しなくてはならない.普段何気なく使っている言葉をこれは専門用語か?一般的に使われる言葉か?と考えながら,内容を練っている.専門用語を説明するつもりが,その説明の中にも専門用語が含まれてしまう.パソコンのマニュアルのような現象だ.
「もしも自分の研究内容を誰にでも理解できるような言葉で説明することが出来ないのならば,それは自分の研究を理解していない証拠だ.」大学院生時代に仲の良かったイギリスからの留学生のコスティスにも言われた気がする.今,ふと気づいたが,今の自分の専門ってなんだろうか?研究らしい研究に没頭しては居らず,サービス業のような毎日のために,自分が専らとする内容まで見失っていることに気づいた.危ない危ない.
ところで私の研究室には日々色々な人物が訪れる.研究(?)の相談に訪れる学生や一寸した雑用を頼む先生方.これも雑用の一種なのだが,PC関連の故障やメンテナンスを頼んでくる人々.私はこの10数年間,自分を頼ってくる人に対しては,よほど自分が追い込まれて居る時以外には対応してあげるようにしてきた.そしてそれによって,上司や学生からも感謝もされてきたと思う.感謝されるというのは気分はいいもので,ついつい常習してきてしまったり,尋ねられても居ないのに相手が困っていたりするとTipsを与えたりしてしまっていた.
しかし,2005年度からは方針を変更しようと思う.なぜなら,そろそろそういう立場でも無くなってきただろうし,何よりも,研究して文章を公表して研究業績を残すことこそが,学生に対する教育であり,自分の将来へのステップでもあると考える今日この頃であるからだ.私の周囲では「俺は早く助教授になりたいんだ!」と呟く人が最近多い気がする.その言葉を聞いて色々と考えてみると,そのための最短の路は研究して形を残すことだという答えに行き着く.ある先生からは「そんなに助教授になりたいの?そんなにポジションにこだわりがあるの?」という言葉を聞いたが,目前にあるステップを登りたいとは思わない人は居ないだろ.特別な理由も無く昇進を拒むものが居るとすれば,その人は変人だろう.ところで「こだわりがあるの?」と尋ねた先生はこの春の人事で助教授昇格を申請して見事昇格することになったそうだ.この先生が拘りがあったかどうかは別として,相応の業績があったからこそ認められたことだろう.私も見習いたいものだ,年齢制が真実ではないことを願う.
ところで,土曜日に学会で母校の東大駒場を訪れた際,院生時代から仲の良かった同じ歳の先輩で東大に就職している禰屋先生から,「なんだかんだ言ってもお前は勝ち組だなぁ.」と言われた.日々努力して数多くの研究業績を残した先輩にしてみたら,昔から落ちこぼれでさほどの業績もない私の姿はそう見えるのだろう.大学への就職枠が激減して,必ずしも研究業績の数だけではポストは補償されず,今日,ポストの確保には運と人間関係が大きく影響することは否めない.しかしながら,私のように「運良く」ポストに在り付けた人間には,その後のハードルは必ずしも低いものではなく,プレッシャーも全くないわけではないということを言っておこう.