懇親会の意義

私が学生時代に競技スポーツを志しながらも部内の交流や和を求めた時があった.しかし,結果的にその年の成績は散々たるものであった.当時,部員や先輩後輩の仲は良くなったかもしれないが,競技会でよい成績を残すことが出来なかった時にはお互いを慰めあう言葉しか交わされなくて,それはまるで駄目な集団の言い訳のようにしか私には聞こえなかった.そもそも切磋琢磨して競技力を高めるのが本来の目的であり,それを倶に楽しむ部であるはずなのに,それを忘れることは本末転倒であると思ったものである.
研究室とて同じである.大学の研究室では研究の真似事や体験をしているわけではなくて,最前線で勝負しているのである.少なくとも私はそんな意識であるし,上を求めている意識の高い学生がいる以上,能力の低い学生に合わせるのではなくて,そういう学生が努力して上のレベルに合わせるくらいの高い意識や努力が必要であると思う.たとえそれが出来ない学生が去ったとしても,それは仕方の無いことである.かえってその方が本人の為であるし,残された者の意識は高まるだろう.真の楽しさなんてものは努力し切磋琢磨した結果として成果を挙げた時に感じるものであり,それをせずに楽しんだり勝負以外の場で交流したとしても,それはある意味では逃げでしかない.本当の交流は努力して腕を試し合うところから生まれると私は信じているし,わざわざ飲み会を開かなくては深まらない交流であれば最初から深めない方がいいと思う.
大学や大学院の教育とは,努力が足りなかった学生に対して手取り足取り教えるものではなく,基本的には自分のやり方を示し,完成形を示すことで成り立つと私は信じている.だから,私が本来やるべき仕事をせずに付きっ切りで教えたりするのは結局のところは何も生まれないわけであり,分からないことがある学生にはその参考文献を探すところからやらせる必要がある.一見は遠回りの教育のようであるが中長期てきに見れば,その方が学生の教育効果は高いはずである.そうすることによって,分からないからといって聞く習慣のある学生達に,自分で調べて研究する能力や習慣を身につけさせることが出来るからである.